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[読書メモ/記録:2007年3月分]


目次



カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』

  • (カルロ・ギンズブルグ著,竹山博英訳,1988,せりか書房) →amazon
  • 原著の副題には「形態学と歴史」(Morfologia e storia=Morphology and history)とあるという
  • 「歴史的に独立した現象の類型学的比較は、本来の歴史的比較と対立するものであった」「私はしばらくの間、研究の結論を文学的に異なった形態で発表する考えをもて遊んでいた。」「一つは具体的で叙述的な形態。もう一つは抽象的で図解的な形態」。後者についてはレヴィ=ストロース(『構造人類学』)から学んだ。「類型学的で形態的な関連は歴史学者の領域外にあるにして、なぜそれを分析してはいけないのだろうか」?(p.8)
  • 「特定の文化的社会的文脈の中で生まれ、伝達される」もの/「異なった文化的環境で生まれ」ながら持つ「形態的類似」(「深層での相応関係」がある? それは「歴史的認識の通常の手段では到達できない層」?)
  • 第2章=「ヴァールブルクからゴンブリッチへ――方法論の問題に関する覚え書き」/「図像資料を歴史資料として用いる方法」「自らが生まれた文脈を離れて図像や定式が受けつがれてゆく事実」について考察(p.9)
  • 「外見上は取るに足らない現象の重要性を明示するには、通常のものとは違った観察装置や探求尺度を用いる必要」。「こうして顕微鏡的な、近接した分析方法を考察することから」「徴候――推論的範例[パラダイム]の根源」(第5章)が生まれた。/影響を受けた本=シュピッツァーの評論、アウエルバッハ『ミメーシス』、アドルノ『ミニマ・モラリア』、フロイト『日常生活の精神病理学』、ブロック『奇蹟を起こす王』(pp.9-10)
  • 「私を魔女裁判の研究に駆り立てた動機の中には、非合理的で超歴史的な(と考えるものもいるような)現象も、つまり歴史的には取るに足らない現象も、合理的で(合理主義的ではない)歴史的な視点から分析可能なことを示したいという欲望があった。」(p.7)
  • 「私は歴史的認識の範囲を広げたいのか、境界をせばめたいのか」?(p.10)
  • 歴史的現象の再構成
  • 認識論
  • 合理主義ろ非合理主義

カルロ・ギンズブルグ『歴史・レトリック・立証』

  • (カルロ・ギンズブルグ著,上村忠男訳,みすず書房,2001) →amazon
  • 序章「歴史・レトリック・立証」:懐疑論的相対主義批判/その知的起源=「レトリックは立証と無関係であるだけではなく対立する関係にある」考え方=「レトリックには指示対象がないという」という解釈。それは「ニーチェまでさかのぼる考え方」/相対主義の限界は「事実判断と価値判断の区別を見失って、それら二つのうちどちらかを時と場合に合わせて禁じてしまっていること」/異文化の共生というテーマ/「知識(および社会生活)を一連の相互に伝達不可能な観点に断片化してしまい、それぞれの集団を自分たちが世界ととりむすんでいる関係だけの内部に閉ざしてしまう危険」/アリストテレスの『弁論術』での議論/「レトリックと立証との結合」。「アリストレスに由来するレトリックの伝統」=そのなかでは「立証の議論が必要不可欠な役割を演じていた」/「暗黙のうちに認められている自明の日常生活的なことがらにかんするアリストテレスの指摘」/「蓋然的な真理の領域」。「レトリックが作動するのは蓋然的なものの領域においてであって、科学的真理の領域においてではない。しかも、それは無邪気な自民族中心主義からさえもはるか隔たったところにあるごく狭く限られた視界の内部にあって作動している」。「蓋然的真理は、それを提出する人物の人格によって保証されていて、そのようなものであるかぎりで立証を超えたところにある賢者の真理とも、プラトンが知識のモデルであるとした、完全に証明可能でだれにでも(奴隷にですら)接近可能な幾何学の非人格的な真理とも合致しない」/レトリックという道具/構築は立証と両立不可能ではない。「欲望の投射なしに研究はありえないが、それは現実原則が課す拒絶と両立不可能であるわけでもない」ー>知識は可能。
  • 「立証という語彙を厳密な理論的吟味にかけることによってレトリックの合理的な核を立証のうちに見てとった」哲学者としてのアリストテレス/古物研究家としてのアリストテレス
  • 直接的な証拠にもとづいた事件の復元/立証、エンテュメーマ
  • 歴史叙述のレトリック次元の強調、に対する
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カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』

  • (早川書房, 1986/1995, 訳:浅倉久志, →amazon
  • 長谷川眞理子『ダーウィンの足跡を訪ねて』にぼろっと出てきて、読んでなかった本だしヴォネガット久しぶりに読みたいなと思って読んだ。
  • 「「なぜ、わたしは赤の他人であるこの連中、不安と飢えの奴隷たちのことを、気にかけたりするのか? いったい、彼らとわたしになんのかかわりがある?」/[…]/「しかし、まだ調査が終わってないんです」とわたしは抗議した。みずから選んで幽霊になったのは、その仕事の付加給付として、人の心を読んだり、人の過去に関する事実を知ったり、壁を透かして物を見たり、一度にいろいろの場所に存在したり、この状況あの状況がどうして生まれたかをとことん追求したり、人間のすべての知識を入手したりできるからだった。「お父さん――」とわたしはいった。「もう五年だけ待ってください」/[…]/「もう五年だけ待ってください、パパ、とうちゃん、おとうさん、おやじ」/「おまえが勉強したいものを勉強するには、それだけの期間じゃとてもたりん」と父はいった。「いいか、せがれ、だからこそわたしは名誉にかけて言明する――いま、おまえがわたしを追いはらえば、今度わたしが迎えにくるのは百万年先になるぞ」」