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  • 田崎さんの書誌情報はこちら(更新 05/07/06)
  • 田崎さんの久しぶりの著作=『無能な者たちの共同体』(2008)
  • 田崎さんが『ジェンダー/セクシュアリティ』で言及されていたリンギスの著作が翻訳された(『汝の敵を愛せ』)。この本には田崎さんによる解説と文献案内が載っているが、その文章を出版社のwebで読むことができる。

『ジェンダー/セクシュアリティ』

  • メモ。ジェンダー/セクシュアリティの基本的な文献として紹介されているGayle Rubin [ゲイル・ルービン]。
    • 「性を考える―セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(『現代思想』1997年5月 臨時増刊号 レズビアン/ゲイ・スタディーズ
    • 「女たちによる交通--性の「政治経済学」についてのノート」(『現代思想』 2000年2月号 pp.118-159
    • 「性の交易」(『現代思想』1997年12月号) ジュディス・バトラーによるインタビュー
  • Lauren Gail Berlant The Queen of America Goes to Washington City: Essays on Sex and Citizenship/gender/sexualityの最後の方 p.90 で触れられている。
  • ベンヤミンへの言及、特に「ドイツ悲劇の根源」かな。
  • 出来事とは?

田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ』 [2000]より

  • 理論的な語りとは? 同一性をはらむ反復? サディズムの誘惑(「自らの受動の否認を通して能動性へと到りつくあり方」)、「語ることはそのような能動性に尽きるのだろうか?」
  • 「なぜ理論家たちは快楽を恐れるのか、理論的であり、かつ、批判的であるためには自らの快楽を否定しなければならないと感じてしまうのか。」しかし「快感の否定というのは、そもそもサドの求めるところではなかったか?」/「サディズムを批判しているはずの理論的な語りそのものが、一種のサディズムに陥っているのではないだろうか」
  • 精神分析的な説明がもちこんでしまう「欠如」の存在(次のような議論に見られる→「サディズムが物語的であるばかりではなく、物語の快楽が不可避的にサディスティックであるというとき、私たちが暗黙のうちに前提としているのは、物語の外の存在、つまり、読者や観客の快楽はひとえに物語内のエージェンシー(何か変化を引き起こす存在)への同一化に掛かっている」)
  • FR:「精神分析における身体化とは何か」
  • 「装置」という概念:物質性、空間性が含意されている。「装置」へと身体が捕捉されるメカニズム、プロセスについて考える
  • 精神分析的な主体の理論で行くと:主体はある装置(家父長制、資本主義、家族、国家、ネーション、言語……)に、主体の欠如を通して捕捉される。「しばしば、その欠如はペニスの有無……視覚的に確認される差異としての性差を通して」ある装置に組み込まれる。/「視覚的、イメージ的な差異」の「非イメージ的な差異(シンボル的……)」への変換/「さまざまなイメージが不在の記号として動員されるとき、ひとは主体としてシンボル的な秩序に書き込まれたのだ」と精神分析は主張するだろう
  • しかし、「装置というときに重要なのは、それが##触発する##ということ」/「装置は身体に働きかける、身体を触発する。身体が装置に組み込まれるのは、##身体が備えている「触発されうる」という力能##においてなのである」(下線=引用者)
  • →「生の根元的な受動性」「生の内在性」についての議論
  • =「能動/受動という関係そのものを可能にするような受動性」
  • 「生きることは、自らを、そして、自らによって生きることである」/「生は、それが、たとい空腹と疲労の極みで死に逝く瞬間であったとしても、この根元的な次元では、何も欠いてはいないというべきである」/「生きるということのもっとも根本となるところでは、生は自らを享受する、自らによって養われる、いいかえるなら、「自己」とは生が貪る対象なのである」
  • ここらへんは、小泉義之も議論しているところ?
  • (「端的に内部しか知らない」個体維持・自己維持に関わる)栄養的生/(外部との関係で規定される・触覚を持ち快と不快を感じられる)動物的生/それらと区別される生(実践的な市民の生? 理論的生?)
  • 個体性
  • 「自己」self と「自我(私)」I, me/享受 enjoyment と快楽 pleasure
  • 器官的生(動物的な生の次元。器官を通じて外部と関係する)と非器官的生
  • その両者の関係についての精神分析の議論:フロイトの功績=非器官的な身体・生の非器官的な広がりの存在(「無意識」と名付けられる)の発見。その固有の実在性の理論化
  • 可視性の領域からことばの領域への移行/「「見ること」を通じて捕捉してくる装置群への抵抗」/

……「誰が十分に知っているのか」という問いは無限背進に陥る。実際には、私たちの日常生活は、どこか適当なところでそのような問いを打ち切っているから成り立っている。というよりも私たちの日常性というのは、何らかの問いや疑いに対する抵抗として存在する。ある意味では、私たちの生をばらばらにしてしまうものへの抵抗こそが日常性を生む。……アメリカ合衆国の日常言語学派を代表するといってもいい哲学者スタンリー・カヴェルは、日常性というのは、懐疑論による(共同体)破壊をくぐった後の、サヴァイヴァルした生の光景であると考えている。……/……

  • お話はこっからなのだが、続きは明日かな。日常言語学派って初めて聞いた。
  • 自我と自己、表象と存在(「デカルトのコギトに対するカントの批判」)

田崎英明「時の肉に触れる」

「──あるいはセクシュアリティは歴史主義に抵抗する」 岡田温司編『カラヴァッジョ檻』 [2001] 所収

  • アナクロニズム(の練り上げ)、歴史、歴史(/歴史修正)主義、記憶、コミュニケーション/知ること、ベンヤミン(『ドイツ悲劇の根源』)、ja.wikipedia:ジョルジョ・アガンベン(『幼年期と歴史』)、ラカン/ナシオ(『ラカン理論 5つのレッスン』)、ベルサーニ
  • おまけで、カラヴァッジョギャラリーlnk からナルキッソスlnk
    • 岡崎乾二郎『経験の条件』ってカラヴァッジョに触れてたっけ?(←注で触れていた)

田崎さんテキスト

  • ランシエール『不和あるいは了解なき了解』の書評「無を数える、言葉を所有する――政治の条件」 『未来』 2005年7月号
  • 田崎英明 「知は社会的紐帯たりうるか」 『現代思想』2005年4月号
  • 田崎英明 「時間政治 大学非常勤講師の柔軟ではない頭から」 『現代思想』2005年1月号 特集=フリーターとは誰か
  • ―――― 「留保なきヘーゲル主義のために」 『現代思想』2004年12月号 特集=ジャック・デリダ
  • ―――― 「商品の言語、商品の性、そして屑の時間」 『現代思想』2004年4月増刊号 総特集=マルクス
  • ―――― 「文化反革命を超えて」 『情況』2004年4月号
    • 「…ジジェクは象徴的なものを複数化することになどまったく関心を示さない。なぜなら、分裂や非一貫性はまさに単一性の中にあるのであって、単一性と単一性のあいだにあるのではないからである。…むしろ象徴的なものの単一性こそが主体を分裂させ、社会に対立をもたらすのである。」(バトラーに対する批判)、「社会に内在する分裂、対立とは、言説間の差異、対立」「すべては言説的実践による構築物である」というような考えに対する批判
  • ―――― 「定義と判断」 『情況』2004年3月号別冊 特集=反派兵
  • ―――― 「政治的多元論など存在しない」 『未来』 2003年11月号
  • ―――― 「空腹の犬、エクリチュールの石」 『現代思想』2003年10月号 特集=グラフィティ
  • ―――― 「類的存在と生-政治――種の境界をいかに越えるか」 『現代思想』2003年7月号
  • ―――― 「なぜマルクスとフロイトは構築主義者ではないのか」 『“ポスト”フェミニズム』(竹村和子編)
    • (ラクラウやバトラーの)「すべてを言説的実践として捉える傾向」「言説による一元的把握」への不満(ジジェクやコプチェクらに「歴史主義」と批判されているもの)、「認識の対象である概念」「概念は歴史的対象の表現」、マルクスの表現論、表現の理論、マルクス『資本論』の商品論「二つの商品は二つの使用価値として出会うことはできない」フロイトの問い「ある表象において別の表象の常道が表現されることがいかにして可能なのか」/「セクシュアリティは差異の問題ではないし、また、同一姓(identity)の問題でもない。セクシュアリティは同じであること(sameness, homeness)にかかわっている。それは反復の問題なのである。反復において個体は本質を表現する。」「同じであることの反復を通じて本質を表現する実体論」「同じものの反復としての多数生(multitude)」、「実体(社会の分裂、主体の分裂)」の表現
  • ―――― 「『ユー・ガット・メール』、あるいはロマンティック・コメディの臨界」 『現代思想』 2003年6月臨時増刊号 総特集=ハリウッド映画
    • スタンリー・カヴェルのロマンティック・コメディーについての議論(amzn)
  • ―――― 「Benjamin-Affection ベンヤミンの測量のために――文献案内の試み」 『ユリイカ』 2002年12月号
  • ―――― 「ドゥルーズの哲学」(宇野邦一との対談) 『現代思想』 2002年8月号
  • ―――― 『現代思想』2001年11月臨時増刊号 総特集=現代思想を読む230冊 ポストモダンの項の執筆
  • ―――― 「精神分析における身体化とは何か」 『現代思想』 2001年10月号 特集=オートポイエーシスの源流
  • ―――― 「The Public's Fearあるいは理想なき生のために」 『現代思想』 2001年6月号
  • ―――― 「計算違い、あるいは平等について――ランシエール、ベルサーニ、幾何学的同一性」 『現代思想』 1999年5月号 lnk
  • ―――― 「アナクロニズムを賛えて――生き延びることと政治」 『現代思想』 1997年9月号
  • ―――― 「世界とは別の場所で――レヴィナスをめぐるいくつかの迂回」 『思想』 1997年4月号
  • ―――― 「死者の語り」 『現代思想』 1996年12月 特集=ジジェク
  • ―――― 「How to learn to curse with words.――ポスト・コロニアリズム戦略」 『imago(イマーゴ)』 1992年7月号 特集=政治の心理学
  • 『インパクション』でもよく書かれているよう こちら でページ内検索を
  • 未来社のPR誌『未来』での連載(1996-2001) 「無能な者たちの共同体」lnk