発見とは、どんな場合でも、自分自身の発見なのだ、ということはあらためて、よく知っておいてもらいたい。誰もそういっているわけではないが、そうなのである。自分と異なるものの中からーーー最も遠いと思われる人の中から、自分と同じものを遂に発見することなのだ。距離があると思われ、あまりにも違いすぎると思われるものの中に、ある日とうとうその奥にこそ同じものがあるということを知る。そのときある苦しみを経験するかもしれない。何ものかを捨てなければならないかもしれない。もっともっと奥にあった。分かってみれば、ほんとうは奥にあったというよりも、前面にあったのだ。ただ気がつかなかったというわけだ。どうして気がつかなかったのだろう。そのくらい他人を理解することは難しいことなのだ。何故か? 自分にとらわれているからであろう。だが、自分にとらわれていなければ、そもそもゼロなのである。(Ⅰ-p.437-438)

「このロシア人は、この人なりに彼の『種の起源』をつかんでいるとおもっていたのかもしれない」

  • 「ダーウィンの理論は、西ヨーロッパでは天才的仮説であるが、わが国では、ずっと以前から公理になってしまっている。」、というドストエフスキーの『作家の日記』の中の言葉が引用される

「人が生き、思いをのべ、それしか確実にのこるものはないところの、あの言葉というもの」

  • 「人が生き、思いをのべ、それしか確実にのこるものはないところの、あの言葉というものを習うことによって、外国の中に入り込んでいた(略)その言葉を朗読したりすることによって、彼はその登場人物と語り、いっしょに生きたということが出来る。いろんな人間に変わったとも言える。」「別の国やその国の呼吸を呼吸していた」(Ⅰ-p.360-361)

「「あなたや私は、このあなたや私ではなくて、そもそも別のものである」」(Ⅰ-p.347)

おそらく、ここから、フーコーなどに入っていけると思っていたら、小島さんは、いきなりフーコーを参照しだしたのだ。

「(略)その声は私に悪魔の如くささやく。ヘルンの中にあったものは、多くの人の中にあったものである。ヘルンを語るには、ヘルン自身さえも気づかぬところの、よって来る所以を語らねばならぬのだ。それがお前の疎めなのだ、と。勿論、その悪魔ーーーそれが悪魔であるとすればの話だがーーーとは私の中に住んでいるものだ。そして筆者は悪魔を愛するのだ。」

  • 日本やオリエントやオセアニアへと乗り出してきた人々
  • 産業革命
  • 領土拡張/地理的冒険
  • 十九世紀世界の基礎
  • ナポレオンの死=1821年
  • 「一八六九年というのは、どんな頃か。相前後してマルクスの『資本論』があらわれはじめるし、ボードレールが死んでいる。イブセンの『ペール・ギュント』、ドストエフスキーの『白痴』、フローベールの『感情教育』、それからサント・ブーブが死ぬ、そのしばらく前に、ドーデの『風車小屋便り』があり、『罪と罰』があるといいった頃である。」(Ⅰ-p.357)、『罪と罰』と同じ年に、ダーウィンの『種の起源』(1859)があらわれる、スペンサーの『第一原理』は1862年
  • ドストエフスキー 『死の家の記録』
  • ラスキン(-1900)
  • 霊と肉の問題
  • 自然や理法の問題
  • 解放の問題
  • 世界再統一の問題(世界を一つに理解しなおす)
    • 以上、トルストイの問題でもあった
  • 進化論
    • ←→宗教、西洋での反応
  • 「産業主義をおこしたものと同じ地盤から、別の様相を帯びて起こってきた」
  • エドワード・モース(1838-1925)、動物学、アメリカより、東大で進化論の講義
  • フェノロサ(1853-1908)、1878年来日、東大ではじめて社会学の講義をした、哲学も講義(英+独哲学を、その統合もはかる)

0415

「私は気がつくと、けっきょく、作家やその人物たちを相手に、小説を書いているのでした。」

現在の私たちは、何も信じていないように思えるかしれない。だがほんとうにそうであろうか。何ごとかを信じている。何ごとかの正体は何であるか。その内容について私は読者に語ろうとしてもいるわけである。」「どのように人々は、外国人にしろ日本人にしろ信じるに至るものであるか? 自分が信じているのだから、他人も他国人も同じものを、同類のものを信じているはずだ。もし違うものを信じているのなら、どこかに同じものであるという証拠を見つけ出さねばならない。その焼くような熱意が、同時代的な様相を呈しながら、個人を動かし、国を動かし、人と直接かかわりあう文学作品などを作らせ、あるいは戦争を起こし、征服に乗り出させてきたのである。(Ⅰ-p.483)

昨日、今日読んでるいる本

  • トルストイ『少年時代』、宮本常一(つねいち)『忘れられた日本人』、小島信夫『私の作家遍歴Ⅰ』
  • 「(略)ヘルン先生の、あの、独特の眼つきで見、様子をうかがいながら見ている(この眼つきのことは、あとで語ることがある)、同情というか共感というか、そういう態度(略)」、小島信夫はこんな風な書き方をする。
  • ヘルン先生とは、ハーン(小泉八雲)のこと。「眼つき」について批判するのではない、その「眼つき」がどのようなものであったのだろうか、つまりその独特さについて、ただこだわり追いかけるのだ。そして、ナントこんな見方をしていたことよ!と驚く。
  • 『私の作家遍歴』には、何かと何かが出会ったとき、その人たちがどう反応したのか、ということが書いてあるのではないだろうか。大きく言うと、日本が西洋(近代)に出会ったということか。ここからどうトルストイたちのところまで行くのか? 戦争ということはあるだろう。あとロシアという国の特殊性のこともあるだろう。だが
  • 小島信夫については、現在書店に並んでいる二つの文芸誌に、対談が載っているようだ(まだ未読)。
  • すごい文章をこの人は書くのだ。それをどう伝えよう。そう簡単に進められる本でもない(まず図書館でなければなかなか手にはいらない)、部分的に引用してもなかなか難しい。「すごい」というのはよくわからない、「ハッとさせられる」もよくわからないだろうか。言えることは、ある流れ(その本を読んできた時間の流れ、それも話はあっちにいったりこっちにいったりする流れ)の中で、(おそらく)その流れに付き合ってきたから「ハッとさせられる」のだということだ(これはもしかしてどんな本にでもあることかもしれない、どんな素晴らしい本にはあることか)。次のようなことを小島さんはスッと書き付ける。「うますぎる話だ」と小島さんは思うわけです。
  • 「誰しも自分の生まれた国や、その国の中でおのずから培われてきたものを、捨てされるものではない。日本人を理解したり、ほとんど日本人と同じような生活をしたからといって、それは、そういう生活をしてみなければよく分からない、というような心構えのことだ。理解するもとは過去からつながっている自分の中にある。違う色や風や光や空や土や水の色や水の量の中に育ってきた過去の自分の中にある。過去を通して見るのだ。ところがそういう過去をもった異国生まれの自分と、別の過去をもった日本という国とが、そこにつながるものがある。あるはずだ。そういうことを教えてくれるものが、日本の虫や草や木や日本の人間たちだ。……それは、まことにうますぎる話だ。このうますぎる話をいっきょに求めようとするところに、きちがいじみたものがある。」(「日本の河」、小島信夫『私の作家遍歴』、強調は元文では傍点)
  • そうして、そうして、小島さんはヘルン先生の「独特の眼つき」を追っていく中で、ヘルンとその妻節夫人との会話まで思い浮かべ、それを書いてみせる。このおかしさ。そして小島さんの方法の中では、他の部分と自然とながっているということを、どうか言葉にしたい。小島さんは、二人の会話を想像して書く。
  • 「(略)「その女中さんは微笑して見せました。それがキイーですね。だから、その人は、ハシタないことそしませんね。そうですね、私、正しいですか?」/「ハイ正しいですよ」(略)」、先の言葉が、ハーンで、後のものが節夫人のもの。「そのとき節夫人が相手をしていたとして、ヘルン先生が、まったくいていないことをいったかもしれない。心の中で思っていたかもしれない。思いさえもしなかったとしても、私はこう考える。」、これはすごい「おかしい」言葉に読める、しかしこのおかしさが、小島さんの書き方だったり、考え方なのではないか。

「私たちが知ってるくせに言葉で説明することを忘れてしまっていること」

  • 「ハーンは、このあと、私たちが知ってるくせに言葉で説明することを忘れてしまっていることを、こんなふうに、くわしくくわしく英語で英語国民に向って語る。/まず同勢がいっせいに右足を下の前に、草履を地べたから上げないで、そのままするりと出す。それと同時に、前にふうわりとしたしぐさで、にこにこ笑いながら、軽くお辞儀をするような腰つきをして、両手を右にのばす。」(小島信夫『私の作家遍歴』)、ハーンとはラフカディオ・ハーンのこと、彼が山の中のある村で見た盆踊り