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[ 読書メモ/記録 戸田山和久/伊勢田哲治 ]


目次

戸田山・&amazon(4782802080,title);

  • 伝統的認識論、知識、人間の認知活動、科学者の営み、「知識はさまざまな形でこの世界に実現しうる p.248」、信念、自然化された認識論、正当化、真理、[5] 間違いからの議論、培養槽の中の脳[6 懐疑論への間違った対応] デカルト『省察』の検討、「懐疑をくぐり抜けて残り知識の体系の基礎を与えてくれるような知識を見つけること」を目指した、「疑うとはいったい何をすることだろう p.117」、「疑うという作業を行うかぎり、存在を打ち消すことのできないものとして、疑う働きとしての私がそこに現れてしまう」 [6-3 デカルトの循環]「デカルトが知識の基礎づけで確実な基礎的信念を求めたのは、彼の課題が単に遡行問題の解決にあったのではなく、われわれの知識を懐疑論から救い出すことにあったからだ p.126」、しかしそれは失敗(「懐疑論論駁としてのデカルトのプロジェクトは破産した」)・どこがまずかったか?・それでもそこから学べるモノは?、「人間の認知能力と自然界のありさまとを同調させる」という(デカルトにおける)「神」の役割、それではその「神」の役割を果たす他のモノはないか?=それは、「自然それじたい」?→ 「自然化された認識論」のはなし(第Ⅲ部) [7 懐疑論をやっつける正しいやり方] 「疑いようのない一片の知識を見つけ出して答えようとする路線」ではなく・懐疑論者の議論のプロセスを問題にするというやり方、ノージック『哲学的説明』
  • 「認識論は、近代の歴史のある時点で、懐疑論を克服して知識を基礎づけようという特殊な動機で始まったローカルなプロジェクト p.218」、「知識の個人主義」というバイアス、「伝統的な認識論は、一方に個人主義的に孤立して考えられた認識主体を置き、もう一方に「世界」あるいは「自然」を置く。そのうえで、前者がどのようにして後者についての知識を獲得できるか、そのための方法は何かを問題にしてきた p.225)、「知識についての個人主義」は「知的自律性という啓蒙主義的理念によって支えられてきた p.223」
  • 多数の科学者の共同作業として営まれる自然科学の研究(←その成果である科学的知識を扱おうとするとき、「個人主義的認識論はまるで歯が立たない」)、「われわれ素人は高度な科学的研究の成果について、正当化された信念も知識ももてない」?「そうではないだろう」、
  • 「認識論の根底に潜んでいる個人主義を批判し、知識のもつ集団的・社会的性格をきちんと視野に入れるように、認識論を脱個人主義化・社会かする必要がある」=「自然化プラス社会化された認識論」、「これだけ高度化し複雑化した科学文明の中で合理的な認識者であるためには、認識論的依存をやめるわけにはいかない」→「われわれに必要なのはエキスパートへの認識論的依存という事実をしっかりと組み込んだ認識論」
  • 「知識の産出と伝達をとりまく社会制度」という要素、「エキスパートへの認識論的依存という現実、そしてその依存を可能にしているさまざまな社会制度」を視野に入れる
  • 「伝統的な認識論では、知識は信念という心の状態の一種として考えられてきた」
    • &amazon(4762821292,title);

戸田山和久 &amazon(4140910224,title);

  • 一般の読書人としては、伊勢田さんの本の方が入りやすい感じがしたな、あっちは扱っていることがより幅広く生活に関係するようなものだから読み物として楽しめる。こちらの方は、もうちょっと「哲学している」感じがある、いっぱい概念が出てきて、ちゃんちゃんと一つずつ押さえていかないと、途中で分からなくなる。また今度再読しよっと。
    • 対話型で書かれた哲学本 &amazon(4061492861,title);
    • この本の巻末の「読書案内」で下の伊勢田さんの本が「本書の次にぜひ読もう」と挙げられていた
    • &amazon(4782802048,title); これ読みたいな
    • &amazon(4790705587,title); これも?

伊勢田哲治 &amazon(4815804532,title);

  • これは超お勧めです・科学哲学に初めて親しみがわいた、まな板に載せられるのは・超能力研究・創造科学・プラシーボ効果・占星術・代替医療 [5 「程度」の問題――信じやすさの心理学から確率・統計的思考へ] 疑似科学を信じてしまう心理的メカニズム(「記事科学を維持するメカニズム」とは?)、そこから抜け出すための方法=「確率的な思考」、信念の保守性=「人間は一度信じたことをなかなか放棄しようとはしないのである」 [5-1-6 信じやすいのは本当に悪いことか?] 「本当にある種の思考法が避けがたいならそれを禁じ手も意味がない」?
    • 「ベイズ主義は確率を「信念の度合い」とみなす「主観説」と呼ばれる立場をとる」「「確率」とは何かについては主観説とよばれる立場と客観説と呼ばれる立場があり、ベイズ主義は確率を徹頭徹尾主観説の立場から理解することを身上としている。つまり、仮説の確率=確からしさとは、われわれがその仮説をどのくらい信じるか、という「主観的」な信念の度合いを表している、というのである。 p.232」
    • &amazon(4762820326,title);
    • &amazon(4150502722,title); ハヤカワ文庫NF これもなー