Robin.D.G.Kelley  ロビン・D・G・ケリー

邦訳書

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ゲットーを捏造する  フリーダム・ドリームス  Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original

ゲットーを捏造する

  • メモ
  • 原著は97年の刊行
  • [第四章:遙かなる過去を振り返る――どうして啓蒙主義は闇へと導くだけなのか]
  • アイデンティティの政治に対し(視野が狭く,階級闘争/階級政治を蝕み衰退させたと)批判的態度を取る「新啓蒙主義左翼」への批判(実際の歴史的文脈の無視,)
    • 「端的に言って,一九六〇年代のいわゆるアイデンティティの政治を,左翼の崩壊,進歩主義的な社会運動の頓挫,貧困ややりたい放題の企業の蓄積を正すことができない私たちの無力さの原因として責めることは滑稽である.」
    • 「アイデンティティの政治は,真の多人種・多文化的同盟関係にとって足枷として機能することもあるが,階級から私たちを引き離すのではなく,階級という概念そのものを豊かにしてきたことも事実であると私は信じている.」「じっさい,多くの真面目な研究者[…]は,さまざまな協力関係の形態,人種的団結,親交,セクシュアルなコミュニティの創設,そして複数のナショナリズムが,どのように階級の政治や人種を越えた同盟関係を作り上げてきたかを理解しようとしている.」「また私たちは,白人支配という敵対的な文脈のなかでの自己愛や団結,ある土地特有の言葉[ヴァナキュラーズ]の受容,コミュニティ内の制度が,どのように人種と階級の連帯に関わる具体的表現になりうるのか,そしてどのように階級と人種の連帯がジェンダー化されうるのか,という問いと格闘している.」
    • 「私たちは,分断的な争点ないし「少数派に関わる争点[マイノリティ・イシューズ]の向こう側に目を向けて,そうした運動が提起し,想像し,構築しているものに注意を払い始めなくてはならない.つまるところ,黒人解放運動,チカーノスやアジア系の運動,ゲイやレズビアンの運動,女性運動などから生まれた分析・理論・構想は,まさに私たちすべてを自由にする可能性をもっているのである.」

  • 「スポーツや校庭でのさまざまな競技にとどまらず,娯楽という範囲の外側に収まる「遊び」の諸形式――視覚芸術,ダンス,音楽――は,都市に住む黒人の若者に対し起業に必要な即時性のより強い機会を提供し,自己の能力を発揮させてはくれない賃労働からの開放をもたらしてくれた.中でも演劇と視覚芸術は賃労働から逃れるためだけでなく,創造的な表現に,あるいは民族誌家で文化理論家でもあるポール・ウィリスが言う「象徴的創造性」に時間とエネルギーを注ぎ込むべく,若者が遊びという労働をどのように商品へと転化したのかという点を力強く劇的に表現する.ウィリスが論じるように,アイデンティティを構築することと,他人と意思伝達を行うこと,快楽を手に入れることは,日常生活のなかで芸術を創造するという労働の構成要素である.それゆえに,仕事と遊びの境界がおそらくもっとも不明瞭になるのは,とりわけそれが商品化されるような場合,象徴的創造性という領域においてなのだ」.
  • 象徴的創造性という概念は Paul Willis Common Culture: Symbolic Work at Play in the Everyday Cultures of the Young から.ウィリスは「アイデンティティの構築,他者との交流,快楽の獲得,これらはすべて象徴的創造性の一部」だと論じているらしい.
  • ケリーの議論に戻ると・・・但し書きがあった・・・「第一に,私は,遊びがもつこのような自己商品化機能が開放的であるとか,革命的であるとか,さらには反抗的だなどと言いたいわけでは決してない.むしろ,遊びが構成するのは,資本主義体制の枠内に収まった戦略域であり――起業家傾向が色濃いものも確かにあるが――,都市に住む労働者階級の若者が発展性のない低賃金労働を避け,エネルギーを創造性や快楽の追求へと差し向けさせるようにと意図されたものでもある.これらの戦略が資本主義の土台を壊すことはない.もっともうまく展開した事業によって生み出された利潤は,資本を支え,商品自体が資本主義体制が拠って立つ前提に挑戦しているときでさえ,またしても同体制がもつ見事な弾性や順応性を見せつけられるからだ.[…]第二に,前述したような形式の遊びを実践している若者のすべて,控えめに言っても大半が自らの努力と能力を商品に転化しようとしている,などと言いたいわけではない.また「遊び―労働」の自己商品化が黒人コミュニティ特有なものである,と言いたいわけでもない」