• 宮沢章夫による書評が、『鳩よ!』(2002年3月号)にあり
  • 堀江敏幸による書評が、堀江さんの書評集『本の音』の中にあり

チェーホフやジョイスのモチーフ

  • チェーホフやジョイスのモチーフとは...「遠く離れた二人が同じときに同じこと思っているかどうかとか,百年後に生きる人間がいまのわたしたちの努力をわかってくれるかどうか」(『小説修業』,p.89)
    • 保坂は,このモチーフについてトルストイが描けたような<ぜんたい>ではなく<部分>としか感じられないと言い,「ここでパタッと文学の思考がとまってしま」(同書,p.66)ったと言い,「私はこれらを<素材>として読んで,ここから何かを考えられそうだという気持ちになる」と言う.
      • 保坂の実践。『残響』の解説の中での石川忠司は次のように書く。「登場人物たちはしきりに時間的・空間的に隔てられた者どうしの交歓もしくはコミュニケーションの可能性について考える」
  • このモチーフはいくらでも「文学的」にも読める─たとえば小説的内面を前提としながら読める─ものだが、それらは無線や写真が発明された時代の中で「リアリスティックに考えてリアリスティック書」(『小説修業』,p.66)かれたものであり、知覚(の変容)をひっかかりとして読むべきだと、保坂は言う。
  • (「文学的」?、内面?)
  • p.116 「「百年後の人間たちは私たちのことをどう思うのだろうか」という考えが,チェーホフ自身にとっても生真面目すぎたために,小説では展開のさせようがなくて,芝居でわざわざモノローグのように言わせて,まわりの人物に無視させたり,打ち消させたりした」

参考

  • チェーホフ,Anton Pavlovich Chekhov,1860-1904,ロシア
  • カフカ,Franz Kafka,1883-1924,プラハ
  • ジョイス,James Augustine Joyce,1882-1941,アイルランド
  • ウルフ,Adeline Virginia Woolf,1882-1941,イギリス
  • ムージル,Robert Musil,1880-1942,オーストリア

「だいだい分かる気がする」

  • 今回の保坂さんの手紙は<記憶>について述べられています.(たぶん読者も)私もゆっくり読むと,あなたのいいたいことは,だいたい分かる気がします.おそらく自分たちもそんなことを思ったことはあったけれども,ほかの人に任せることにしたのではないかと思います(小島,p.120)

  • 『小説修行』の最後で,小島さんが保坂さんからの年賀状に記されていた言葉として,フーコーの『言葉と物』からの一節が取り上げている
  • 小島さんは,そのフーコーのテキストに対して悲観したり投げやりにならいでほしい,というような保坂さん自身の文章が添えられていたこと紹介している,それは次のようなものだという
  • 「「この数世紀あたりのあいだに,人間は決して崇高な格別な生き物というのではなくなった.人を機械のように説明するのはやめにしよう.自我といった主体といったりするのは,やめにした方がいい.人間も動物も植物も鉱物もすべて同等である,というふうになってきた.」
  • 「科学と哲学と小説を連関させなければいけない」と保坂さんが考えているとすると,それは「ここ数世紀あたりのあいだに」科学や哲学が示してきた「人間は決して崇高な格別な生き物ではな」いという認識を受け継ぎつつ小説は書かれるべきだということだろう
  • 保坂さんの次の言葉。「「世界」の中心に「人間」がいて,そういう人間であるところの私の悩みや私と社会の相克を描くことだけが文学なのではない. 科学と哲学は,人間と世界の配置を劇的に変えた. 科学や哲学との連関を失ったら文学が書かれ読まれる意味はないと僕は思う.『季節の記憶』を書きながら僕はずっとそれを考えていた.」(「科学の世界像と日常の風景」,『アウトブリード』収録)
  • もう一つ『小説修行』からも引用する,最後から二つ目の手紙=保坂さんの最終回分からです
  • 「私はそういう風にして「人間」とか「私」というものを,統合されたものでなく解体して考えることにしました.私のこの人間観をヒューマニズムにものすごく反する人間観と解釈する人がいっぱいいるだろうと思いますが,私は「人間」を肯定するためにこういう人間像を考えたのです.」(『小説修行』,p.200)
    • この人間像の「像」というのはどうしても保坂を考える上でというか重要なもので,例えば,それは次のよう保坂の文章と関係する
    • ・・・『残響』を書きながら私がずうっと考えていたことは,「動作の軌道はこの世界に記憶されないのだろうか」ということと,「離れた二人がいるときに,二人の考えはまったく響き合わないのだろうか」ということです. //どちらも科学的に言ってしまえば,「記憶なんかされない」「響きあったりなんかしない」ということにしかなりませんが,この答えがもしYESになったら,人は生きていることをもっと違った風に考えられるだろうと思うのです.(『小説修行』,p.138)
    • つまり「違った風に考えられる」というのが新しい「像」を得るということで,それはここで言われている「納得」という言葉を使うと,新しい「納得」のかたちを得るということだ

  • 『小説修行』 p.18 小島さんが,保坂さんの第一作『プレーンソング』の頃の,主人公=語り手=保坂さん的人物が「身をやつした」姿勢で語っていたことを指摘している
  • ぼくは,この「身をやつす」という言葉がぱっとは理解できなかったのだが,「やつす」とは辞書には「見すぼらしく、目立たないように、姿を変える」とある
  • 小島さんは続けて,他の登場人物たちは保坂さんのように「身をやつす」ことなく「世間でパッとしていないことになっている人たち」だと書く(この「していないことになっている」を忘れてはいけない)
  • そして彼ら(「世間でパッとしていないことになっている人たち」)について(「ぼくはこんなに猫のことばかりいいたくないが」と前置きしながら)「彼らは猫のように誇り高い.読者や評論家が一瞬でも彼らを見下すことあれば,ひどいめにあうだろう」と書き,「といってもとりあえずはケラケラ笑ってみせるだけだけれども」と付け足す
  • この該当部分のたった7行の小島さんのテキストを読む体験だけでまず独特なのだということを記しながら,もう少しこの保坂さんが「身をやつしながら」書いていたということを追いかけてみる
  • p.28-,小島さんは,この「身をやつす」スタイルが,「ほんとうはぼくも嫌いではないし,似たところがあったのでしょうね」と書き,しかしと続ける.
  • 「しかし,保坂さんは,ぼくのカンちがいかもしれないが,この姿勢(ぼくが勝手にいったこと)から一歩進み出ようとしていると思います.保坂さんにあたる自分に襲い掛かってきた,ある新しい思いと対話し,うんうん,とうなずいているところも見出されます.」
  • 実は,この直後に小島さんは「ぼくは今,こう書きながら,あっ! と膝を叩くような気分を感じました.」という一文で,話をこの本の中で重要な話題の1つである「トルストイと彼が描いた<ぜんたい>」という話に接続するのです
  • どのようにこの前後の話が小島さん(保坂さんの言い方なら,小島さんというプログラム?)の中で繋がっているのかはじっくり読み込みたいところですが,それは今回は置いておいて,先の保坂さんが「身をやつす」スタイルで書いていという指摘に対する保坂さん自身の言葉を読んでみたいと思います
  • p.35