- 保坂和志既刊一覧● ... 保坂さん自身の個々の作品についてのコメントや創作ノートが公開されている.
- 『新潮』に「カンバセイション・ピース」が連載掲載。いつ単行本化されるのだろう?
『言葉の外へ』
- 帯に「『アウトブリード』から5年目のエッセイ集成」とある。五年という時間が長いか短いかはよくわからない。というか、場合によりけりだろうが、保坂さんは小説の他のテキストも求められている作家なのだなと思う。そういう作家とそうでない作家の違いというのは何なんだろう。基本的に、エッセイや雑文のたぐいは、依頼があって書くものだろう。
『小説修業』,01-10
『残響』(文庫版),01-11
- 「コーリング」, 94-12
- 「残響」,96-11
- この文庫版には,石川忠司による解説が収録.これも素晴らしい.
『世界を肯定する哲学』, 01-02
『生きる歓び』, 00-07
- 「生きる歓び」, 99-10
- 「小実昌さんのこと」, 00-05
- 「あとがき」, 00-06
『もうひとつの季節』, 99-04
『<私>という演算』 [1999-03]
- RawHosakaEnzan
- 「思考のかたちとしての九つの小説」と帯にある.
写真の中の猫
- 「動きや話し声がこの世界に残らないで消えてしまう」(p.23)、「物理的」に消えてしまう、「時間がこの世界に残らないで消えてしまう」ことをリアルに感じた?
- ー>「写真という、時間を記録した断片があることによって、それを取り囲むものがいろいろ想起されること」のリアリティ?
『アウトブリード』, 98-06
- 「小説家の芯にはこんなに硬いものがある, 芥川賞・谷崎賞作家によるハードエッセイ」(帯より)
- 「言語化の領域」, 「"様態"のこと」
『季節の記憶』, 96-08
『この人の閾(いき)』, 95-08
- この人の閾,95-03
- 東京画, 92-05
- 夏の終わりの林の中, 93-12
- 夢のあと,90-10
- 夢のあと?
- 登場人物の一人が,ある風景を見て「夢のあと」のように感じたと言う.その言葉に対して他の人が「何かを言った気になっちゃうが,何も言ってないのと同じ」と言う.そして「夢のあと」と言ったことについて,「見てきたものに対して誠実じゃなかった」と先の人物は思う.
- 89年の設定.・・・天安門事件
夢のあと
『この人の閾(いき)』に収録
- 6月4日(日)、鎌倉、三人(男、男、女)
- 創作ノートによると、この話は89年の6月4日のこととのこと。その日は天安門事件の日だそう。
- 「鎌倉の笠井さん」に会いに行く、「れい子という女の子」と一緒に、ぼくは。
- 笠井さんが「自分が子どもの頃遊んでいた場所が今どうなっているのかを見て歩く」のに同行
- 公園から子どもとスポーツの話、男の子、女の子
- 草野球から少年野球へ、<--そんなの男の子だけの話?
- 「ぼくも自分の見てきたものに対して誠実じゃなかったと思った。そうなると今見てきた、もうじき取り壊される幼稚園や、その中で積み上げられていた嘘みたいに小さい椅子や、何もなくなっていた子どもたちの部屋なんかをうまく言える言葉が全然なくなってしまって、……」
- 登場人物の一人が、この中で描かれている情景に対して、「夢のあと」みたいと言いたくなって言った。それに対して、「そういうのって、なんか、簡単すぎる」「『夢のあとみたい』とか言っちゃうと、それで、何か言ったような気になっちゃうけど」「何も言っていないのと同じ」ではないかと言われてしまう。その後に出てくるのが上の一節。
- そして、どう表現したらいいのだろう、というようなことを問う。その答え。
- 「わからない」「初めての経験だから、表現のしようがない」、と言って笑う。
『猫に時間の流れる』, 94-07
『草の上の朝食』, 93-08
『プレーンソング』 [1990, 09]
- 舞台は86年(『草の上の朝食』も)・・・チェルノブイリの話し
最後に、アキラをああやって描いちゃうのはすごい。
- それまで、ボコられたりしているのに。
- (最後より)もう少し前の、よう子とアキラ(の写真)について導き出された、ぼくの考え、あれもすごい。「…よう子が言葉にしなかった考えやよう子自身でもうまく言葉にできないでいる考えがあればそれも聞いてみたいと思い、それからそういう考えをよう子はいつ形にしようとしているのか、猫にご飯を置いて回りながら形にしようとしているのだろうか、そんなことも知りたいと思った。それで浮かんできたのがアキラの写真で、よう子が猫のご飯を配って回りながらいろいろなことを考えている様子が、アキラの写真に写されているのかもしれないと思い、そうなるとアキラがこれまで撮ってきたよう子の写真を見てみたくなった。」
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