WhoKitada

北田暁大『広告都市・東京 ― その誕生と死』(amazon)

  • おもしろい本だし、キャッチーでもあると思ったのに、あんまし、書評等で話題にならなかった。『論座』(03年02月号)の柏木博ぐらい? ・・・と思っていたら、みすす書房のPR誌の、2002年の何冊とかいう企画で、大澤マサチせんせいが、挙げていた。大澤氏は、北田さんに期待しているご様子で、あういう小さい本(『広告都市』は、新書タイプの本だ)では本領発揮できないのではないかと思っていたのに、いい意味で裏切られた、というようなことを言っていた。大澤さんと北田さんは、大航海という雑誌で、カルチュラル・スタディーズについて対談されていたことがあると記憶する。
  • web上で見つけた書評

  • 以下メモ。

広告の幽霊化=<隠れ>モードの広告

  • 「広告は、そこにいる人が「広告である」と認知しないような形で、あるいは「広告である」か「広告でない」か判別しがたいようなあり方で、都市空間に<隠れ>ている。広告は不可視なままで、幽霊のように都市空間にとりついているのだ。」(p.23-4)
  • 「判じ絵のように姿を隠す広告のあり方は、露骨な<オカネ儲け>を厭う近代人、<文明化>された近代社会に生きる私たちに向けられた巧妙な差異提示の方法なのだ。」(p.26)
    • 判じ絵とは「判じ物の絵」。「判じ物」とは「ある意味を文字・絵画の中に隠して、考え当てさせるもの。なぞ。」(Shin Meikai Kokugo Dictionary)
  • 「差異を見いだすという資本の論理を徹底させていった結果、広告は、自らの姿を消すことによって、姿をあらわす以上に上首尾に差異を生み出すという自殺方法を<発見>したのである。」(p.30)

脱文脈性=メディア寄生性

  • 広告は、文学や映画のような「近代社会における王道的な文化表象」と違い、「制度化された特的の表現形態を持たず多様なメディアに寄生しながら、日常生活の秩序だった文脈を乱し続ける。」(p.32-3)
  • 「広告は、メディアの物質性を透明化し、作者の意図=メッセージを特権化するこうした文学とは対照的に、その期限から一貫して、メディアが受けてに対しておよぼす身体感覚―「メディアはマッサージである」という事実―に敏感であり続けていた。」(p.34-5)
  • 「マッサージの重要性を認識していた近代の香具師たちは、印刷や写真などの新しいメディアがもたらすマッサージ性を貪欲に摂取していった」
  • 「作者のメッセージなどよりは、受けてが感じ取るマッサージのほうが重要なのだから」
  • 「ひとつのメディアに安住することなく複数の文脈をわたり歩く」「広告のふるまいは、まさしく資本の論理―機能的差異が存在しないところに差異を発見・創出し、特定の(時間的・空間的に限定される)共同体をたえず踏み出していく―をまさしく実践したものにほかならない」(「無意識のうちにモダニズム的な空間秩序の「脱構築」を実践していた」)

現代広告の両義的なあり方

  • 「記号の意味内容(メッセージ)の外部にある身体感覚(マッサージ)を広告はけっして手放すことはありえない」。
  • (一つの)記号体系の外部への踏み出し、脱文脈性=メディア寄生性。
    • 「幽霊的なあり方が差異を生み出さないことがわかると、広告はさっさと次の寄生スタイル(別のマッサージ法)を模索してしまう」。「差異を求める資本の論理と、文脈を逸脱・横断する広告の本能」

広告と都市とを統合で結ぶ<80年代>的な広告=都市の生成と終焉―そのなかで私たちの身体やアイデンティティはどのように変容していくのか。

マスメディアの論理の自己解体以降/90年代半ばの「インターネットや携帯電話など、「マス・メディア/パーソナル・メディア」という従来の区分法には収まりのつかないメディア」の大衆化以降

  • 「つねにすでに外部に接続されており、物語的・意味的な奥行きを求めることのない」

「空間の脱舞台化」

「つながりの社会性の浮上」

  • /秩序の社会性
  • CF的な広告空間の構成/舞台性などおかまいないしの空間の全面広告化/室内化

「広告という詭計的(トリッキー)な情報伝達の方法論」

「広告とは、根源的な意味において、たんなる商用メッセージのことではなく、メディア(新聞や出版物)の限定された誌(紙)面空間のなかで「私を見よ!」と強引に主張し、受け手のまなざしを誘惑する語りのスタイル、「メッセージ」がまとう物質的身体(情報様式)のあり方のことをいうのである」