FrontPage/文芸インデックス
読書(小説)ノート集
- reading and writing 読みながら書くこと
- 本のネットワーク
- 「「読む」「書く」(と、それによる思考であるところの文学)」(保坂和志「言語化の領域」、『アウトブリード』収録)
以下未整理
斎藤美奈子
- 2種類の仕事の系統。ブックレビュー系(単なる書評ではないが)と、文芸評論系
- 以前気になった、斎藤美奈子批判(『趣味は読書。』に関して)の文章を再発見 ●
- 一方、好意的な評(文壇アイドル論に関して) ● 同じく好意的評 ●
- 『妊娠小説』について ● 「(以下蛇足)しかしこのことは、作品を作品そのものとしては批評しないということになるのか・・・」という部分。斎藤さんの批評の戦略の一つとして、読者というパラメーターの導入という方法がある。そのことについて、一番上のサイトでは批判されていると思う。それは「作品を作品そのものとしては批評しないということになるのか」?
- ちなみに、これらは4件とも、「内田樹 斎藤美奈子」で検索して出てきたサイトである。すべて有名サイトだが。
- ●
- 「殿様商売風の送り手とそれを当たり前に思っている受け手の関係」
- このごろこのネタばかりですが、斎藤さんの、男性誌批評がどんなものなのか.、ここで少し味わえます。『number』の回が紹介されている。・・・あ、リンク先文中で「文字コンプレックス」となっているのは「文学コンプレックス」の間違えですね。
- あと、斎藤さんがこの連載に先駆けて『uno!』でやっていた女性誌批評(『あほらし屋の鐘が鳴る』に収録)は、橋本治の「ひと言雑誌批評」をヒントをしているのかも、という記述をこちらのサイトで見つけたのだが、この橋本さんのテキストはどこで読めるのだろう?
- 橋本さんは『浮上せよと活字は言う』で、ファッション(誌)についてかなり詳しく書いておられる。 amazon
- 斎藤美奈子「men's magazine walker」(『AERA』で連載されていた)を、初回(2000/5/29号)から一年分程のコピーを手に入れられた。やっぱりおもしろいぞ。「ヤングオート」という改造車趣味の雑誌への入れ込み様とか(「もっとも安いマッチョ」=「ヤンキー趣味」は貴重/「こんな雑誌が20年近くも売れて続けているという事実を甘くみちゃいけない。日本の文化も、これでなかなか多様なのだよ。」)。『number』への苛立ち(「日本ではスポーツファンはマジョリティであり、スポーツ嫌いはマイノリティーなのだ。「ナンバー」の殿様商売な感じも「スポーツ報道は花形である」という多数派をバックにつけた「勝ち組」意識から来るんじゃないか。」)
- 『エスクァイア』に対して、この雑誌が女性誌だったら「ものすごーくオシャレな雑誌だったかもしれない」、という指摘もおもしろい(「衣食住をアートする記事の端々に見え隠れする「オンナコドモにはわかるまい」な雰囲気。それと不思議なまでのユーモアの欠落。」)
- ここ数年で、『エスクァイア』も変わったのかもしれないから、ちょっとわからいところもあるが。
- また『月刊 へら』という釣り雑誌を取り上げての記述=「メインの釣り場は管理釣り場と呼ばれるそこいらへんの釣り堀だ。ああういうところでズラリと並んで、じっと糸を垂れているおじさんたちがいるでしょう。あの方たちが、ほかならぬ「へら師」なわけ」。
堀江敏幸
- 堀江さんを読みだしたのは、仲俣さんの書評を読んでだったと思う。
『本の音』(晶文社)
- 書評集ということで。読みながら書く。書評が本と本を結ぶ。
『ゼラニウム』
- 短編集。男、女、異物、異シーン。最後に一本、日本を舞台にしたものも(「椎名町と池袋のあいだの、西武線沿いにひろがる木造ばかりならんだほのぐらい住宅地区に、あの二階建ての仕舞屋ふうの家はまだ残っているだろうか。」と始まる)'。
『回送電車』
『書かれる手』
『おぱらばん』
『熊の敷石』
『いつか王子駅で』
中島一夫
- 中島一夫さんという文芸批評を書かれている人がいる。2002年に週刊読書人で一年間、毎月の文芸時評を担当していた。以下、ぱーっとネタを抜き出してみる
- 1月
- 2月、舞城「バット男」、稲葉真弓「どんぶらこ」
- 3月、星野智幸「砂の惑星」
- 4月、スガ秀美・高橋源一郎の論争、「重力」
- 5月、「国語」教科書問題、「必読書150」
- 6月、「文学界」「群像」新人賞受賞者から寺村朋輝「死せる魂の幻想」、吉田「パーク・ライフ」
- 7月、「和歌」を取り込んだ「私小説」
- 8月、ワールドカップへの文学者の言及、奥泉「浪漫的な行軍の記録」
- 9月、「群島」的思考、丸川「冷戦文化論」、浅田・島田対談、柄谷「日本精神分析」、「脱「冷戦」としての竹内好・武田泰淳」
- 10月、吉田知子「日本難民」、藤原智美「光と犬」
- 11月、「新潮」「すばる」「文藝」新人賞について、また受賞者から中村文則「銃」
- 12月 大道珠貴「ひさしぶりにさようなら」「しょっぱいドライブ」
- 2002年を振り返るというような企画で(第2468号)、吉田修一と漱石
- 「この時評に取組むにあたって、とにかく作品に溺れてみよう、できればその中に入り込んでしまおう、と考えていた」、「私はこの間「制度」に流され、足をとられ、その結果それを補強してきたにすぎないのではないか」、「「文芸批評というまがいもの屋」」、「だが、時評を通じ吉田修一や大道珠貴といった作家の対等を確信として受け取れたことはやはり収穫」、「文芸時評が「まがいもの屋」にならずにいられるとしたら、そうした出会いにおいてしかないからだ。」
- 「新潮」の2001年9月号~12月号でも文芸時評を連載
- 太田道子「ヤミフクロウを探して」、福田和也「イデオロギーズ」、横田創「裸のカフェ」
- 玄侑宗久
- 「戦争」、辻井南青紀「バーガープラネット」、三枝和子「『千人針の思ひ出』」、平田俊子「ブラック・ジャム」
- 「新潮」「すばる」「文藝」新人賞受賞者から、鈴木弘樹「グラウンド」、岡崎祥久「南へ下る道」
- 文芸誌にとってるものは、広く取り上げている感じ?(知らない作家も多い) それでも批評系以外は、若いひとのものが多いのか?(吉田知子や藤原智美は若手じゃないけど)
- 文學界_030401 福田和也『現代文学』(中島一夫)-中島一夫さんという文芸批評の人がいる。2002年に週刊読書人で一年間、毎月の文芸時評を担当していた。以下、ぱーっとネタを抜き出してみる
- 1月
- 2月、舞城「バット男」、稲葉真弓「どんぶらこ」
- 3月、星野智幸「砂の惑星」
- 4月、スガ秀美・高橋源一郎の論争、「重力」
- 5月、「国語」教科書問題、「必読書150」
- 6月、「文学界」「群像」新人賞受賞者から寺村朋輝「死せる魂の幻想」、吉田「パーク・ライフ」
- 7月、「和歌」を取り込んだ「私小説」
- 8月、ワールドカップへの文学者の言及、奥泉「浪漫的な行軍の記録」
- 9月、「群島」的思考、丸川「冷戦文化論」、浅田・島田対談、柄谷「日本精神分析」、「脱「冷戦」としての竹内好・武田泰淳」
- 10月、吉田知子「日本難民」、藤原智美「光と犬」
- 11月、「新潮」「すばる」「文藝」新人賞について、また受賞者から中村文則「銃」
- 12月 大道珠貴「ひさしぶりにさようなら」「しょっぱいドライブ」
- 2002年を振り返るというような企画で(第2468号)、吉田修一と漱石
- 「この時評に取組むにあたって、とにかく作品に溺れてみよう、できればその中に入り込んでしまおう、と考えていた」、「私はこの間「制度」に流され、足をとられ、その結果それを補強してきたにすぎないのではないか」、「「文芸批評というまがいもの屋」」、「だが、時評を通じ吉田修一や大道珠貴といった作家の対等を確信として受け取れたことはやはり収穫」、「文芸時評が「まがいもの屋」にならずにいられるとしたら、そうした出会いにおいてしかないからだ。」
- 「新潮」の2001年9月号~12月号でも文芸時評を連載
- 太田道子「ヤミフクロウを探して」、福田和也「イデオロギーズ」、横田創「裸のカフェ」
- 玄侑宗久
- 「戦争」、辻井南青紀「バーガープラネット」、三枝和子「『千人針の思ひ出』」、平田俊子「ブラック・ジャム」
- 「新潮」「すばる」「文藝」新人賞受賞者から、鈴木弘樹「グラウンド」、岡崎祥久「南へ下る道」
- 文芸誌にとってるものは、広く取り上げている感じ?(知らない作家も多い) それでも批評系以外は、若いひとのものが多いのか?(吉田知子や藤原智美は若手じゃないけど)
- 文學界_030401 福田和也『現代文学』(中島一夫)
伊井直行『さして重要でない一日』
- 89年の作品。表題作を読む。伊井さんと言えば、今年久しぶりの作品『お母さんの恋人』 amazon が出版されて渋く話題になっていた(たとえば、川上弘美による書評。また、最近荒川洋治も2003年前半期の収穫としてこの本を挙げていた)。
- 「さして重要でない一日」は、会社という空間─そこには色々な部署や施設がある─を舞台ににしている。コピー機という装置にも焦点が当てられている。「社内局」という会社内での郵便システムが出てくる。
- コピー機についてのシーン。主人公は空いているコピー機を探して社内を歩き廻っている。「コピー室は簡単に見つかった。後ろ姿の女の子がふたり、二台のコピー機を操作するのを彼は眺めていた。今までそんなことを感じたことはなかったのだが、それはとても奇妙な動作に見えた。コピーするページを新しいものに差し替えてボタンを押したあと、かならず空白の時を生じる。これは明確な長さを持ったある時間なのだが、何ごとかをするには短すぎるので、コピーをする人間は宙づりの状態でこの空白が過ぎ去るのを待つしかない。後ろ姿のふたりは、方や呆けたようにボンヤリと、もう片方がもの思いに沈むように軽く背を屈めてこの時間をやりすごし、次の動作に移行する。二人とも、背後にいる彼に、一向に気づかない。コピーの件数は多そうだった。・・・」
- いつもの会社の空間が、主人公の知らない空間へと変化していくシーンがある。そのような変化へと彼を連れていくちょっとした人間たちの描かれ方もいい。
以下未整理
越智道雄 『幻想の郊外 ― 反都市論』
- 「本書は、二十世紀が押し詰まった一九九九年に起きた出来事から、暴走するアンチ・トポスに仕留められたトポスの死骸を検証したものだといえる」
- アンチ・トポスの暴走=「人類が他の生物との謙虚な共存を棄て、自らを神に近づける証明として自然界を素材にしてあらゆる人工物を製造し、地球を人工化してしまう倨傲(ヒューブリス)の結果」
- グローバライゼーション、目的共同体(60年代で言うコミューン)/第二次カウンターカルチャー(60年代の第一次カウンターカルチャー)、アメリカの状況・日本の状況、アンチ・トポス(化)、トポス(場所意識)回復、終末思想、(高度管理社会)、外輪郊外(内輪郊外)、ロウテク経済圏(ハイテク経済圏)、グローバル市場主義・民主主義・環境保護主義(汎世界イデオロギーの三位一体)、カインによるアベル殺し(産業文化による狩猟採取文化抹殺の象徴)
- 「外輪郊外は一九五〇年代にできた郊外より都心から遠い場所に七〇年代後半から立てられ始めたので、この呼称が使われ始めた」
- 「<カインの末裔>と化した人類がアベルの生き方へと部分的にでも回帰しようとするあがき」としての、環境保護運動やコミューン(目的共同体)活動。
- 仲俣さんの書評1、書評2
- 高度管理社会?
- '「「無限にプログラム可能なコードと情報のフローで構成されたサイバースペース上のスムーズ平面」、これが、規律社会以後の、すわわち「管理統御(コントロール)社会」(ドゥルーズ)の暗喩的空間なのである。資本主義のグローバル化の文脈でいえば、情報化によって資本は、世界のどこであれ、投資と生産のための最適な環境を瞬時に把握し貨幣を動員する。それは国民国家のような「場所」に依存した単位を超えて、リアルタイムに世界単位で作動するのである」(酒井隆史『自由論』 p.38,39)'
高橋源一郎
『日本文学盛衰史』
- 作家が死ぬ死ぬ(最後なんてすごい、登場した作家たちがすべて死んでいく)。明治期、たくさんの作家は死んでいった。何が生み出されたのか、生み出されようとしていたのか、その中で引き継ぐべきものは何か、考えてるの か な。複数の本を読みながら、ある作家にこだわりながら、ある本とある本、ある作家とある作家を行き来しながら、あるときは自分自身(とその周辺の人々)をもその虚構の中へと取り込みながら、小説を書くというやり方だから、小島信夫を『私の作家遍歴』を思い出す。そういえば、『私の作家評伝』の方は明治の作家達を扱っていた。
『優雅で感傷的な日本野球』(1988)
『一億三千万人のための 小説教室』(岩波新書)
- 「それは、簡単にいうなら、他の人とは違った目で見る、ということです。そして、それは、徹底して見る、ということでもあるのです。」
- 「それが、どんなヘンテコで、理解不能の世界に見えても、あなたの前に、ことばとして現れた時には、その小説は、道の半分まであなたの方に近づいている、のではないでしょうか。…(略)… ただひとりごとを呟いていたのではありません。それを書いて、ことばにして、ボールにして、こちらに打った、あるいは、投げたのです。」
- 「すると、千年前の、知らない人が生き返って、目の前に、現れる。そして、つかつかと、あなたの(わたしの)、真ん前に来て、/「あんた、元気?」/と話し掛ける。」
- 「うたわれるうたを聞いている時、人は、その一つ、一つの、ことばを聞いているのではなありません。そこに響くものを聞いているのです。それは、向こうから、強く、まっすぐ、やって来て、わたしたちを貫きます。それは、時に、まるで、神からのメッセージのように、眩しい。」
仲俣暁生 『文学:ポスト・ムラカミの日本文学』
長谷川尭 『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』(中公文庫)
- 『月島物語』にまつわる鶴見俊輔との対談(鶴見さんの対談集に入っている)で、四方田さんがこの本に言及していたから。
佐藤春夫 『現代日本文学大系42:佐藤春夫集』(筑摩書房)
- 長谷川尭『都市廻廊』で言及があったた「美しい町」が入っている。「美しい町」の時代設定は、明治最後の年から大正にかけて。登場人物が、ウィリアム・モリスの『ユートピア便り』を愛読していたりする。隅田川の中洲に理想郷(「生きて動く大きな芸術品としての『美しい町』」)をつくろうとする三人の話。作品として楽しんで読んだかかといわれると微妙(でも読めないわけではない)。
小沼丹 『小さな手袋』(講談社文芸文庫)
- 堀江さんの本の中で紹介されていて。彼の本は、同じ講談社学芸文庫から何冊か出ている。最近(2002年)、小沼さんの友人でもあった(本の中にも登場する)庄野潤三が編集した『小さな手袋/珈琲(コーヒー)挽 (ひ)き』がみすず書房から出ている。
長谷川四郎
- 『ちくま日本文学全集:長谷川四郎』(筑摩書房)
- 堀江さんの『書かれる手』での魅力的な長谷川四郎論を読んで。ちくまから出ている文庫サイズの日本文学全集の中の一冊で手に入れやすい。解説は鶴見俊輔が担当。
- カフカの翻訳もしていた。池内紀『ちいさなカフカ』の中の「万里の長城」とエッセイも参照。
宮本常一
- 批評家の石川忠司がこの人のことを何度も魅力的に紹介していたことなどから。宮本さんの本は、文庫でもいろいろ読めます。
- 『忘れられた日本人』(岩波文庫)
- 石川さんが実際に名前を挙げていたのがこの本だったか。
- 『空からの民族学』(岩波現代文庫)
- この本は雑誌での連載で、写真とそれにまつわる文章というスタイルをとっており、形式的にもヒントがありそう。
吉田健一
川田順造 『サバンナの手帖』(講談社学芸文庫)
- 四方田さんの『月島物語』にこの人との対談が出ていたこと、レヴィ・ストロースの翻訳者であることも思い出す。その後古本屋で見かけたので。裏表紙の紹介文の中の「(アフリカの熱帯大草原サバンナに生きるう人と文明を、)時間と空間を孝作させて活写した好著」という言葉に惹かれたこともある。この言葉では『月島物語』も思い出した。
後藤繁雄 『独特老人』(筑摩書房)
- インタビューという形式に興味があること。また、高橋源一郎が『小説トリッパー』での連載でこの本の中の、鶴見俊輔tと後藤さんのやりとりを取り上げていたのが印象的だったということもある。
如月小春『都市の遊び方』
- RTの小崎さんの如月さんを追悼したテキストを読んで、この本の編集者は小崎さん
ベンヤミン「物語作者」
須賀敦子
- 沢木耕太郎『世界は「使われた人生」であふれてる』、ブックデザインが好き、微妙な青、手書きの題字、カクカクした持った感じのよさ、暮らしの手帖社から出ています、映画エッセイ集
- トルストイ 『少年時代』
- ジョイス 『ダブリン市民』
- 越澤明『東京都市計画物語』
- bk1の連載で山形さんが薦めていた、『東京の昔』を読んでいることもある
- 1923年(大正12年)関東大震災、後藤新平、帝都復興計画
- 「東京では復興街路、復興公園、復興したオフィスビルが美しく輝いていたのは一九三〇年前後のわずかな時期であり、やがて戦時体制に突入していく。」、この時期こそが『東京の昔』なのかな
- 住宅地開発、板橋の常盤台(地図)、
- TWS2(http://www.kanshin.com/index.php3?mode=keyword&id=46204)
- フェーブル+マルタン『書物の出現 上下巻』
- フェーブルはフランスのアナール学派の創始者、アナール派+書物への興味から
- 角田光代『東京ゲスト・ハウス』
- 小林紀晴による写真を使った装丁がきれい、この作家の事を石川忠司がよく書いている
- 表紙の小林の写真には、ちょっとエスニックっぽい服を着た男の子や女の子がこれまたちょっとエスニックぽい楽器を持って、うずのように折り重なるように寝転んでいる写真で、洗練されている感じがするけれど、この小説の登場人物はここまで、たとえばファッションとして、ちょっとエスニックぽい服を着たり楽器を持ったりするほどに、ソフィスティケート(?)されているだろうか
- 後半終わり近く、「王様」の出現、フトシとの交歓の可能性(「「いや話したいのはこーゆーことじゃなくて、その夫婦の女が言っていたんだけど、L食うじゃん。でね、なんか超すばらしい世界見たとするじゃん。一回そういうの見ちゃうと、次からは、Lなしで、その世界にいけるって言うのね。、知っちゃってるから。Lはそういうことが可能だって言うのね」 フトシはそこで言葉を切ってぼくをじっと見た。おれLSDやったことないから、と言いかけると、両手を広げて大きくふり、「ちゃうのちゃうの、Lのことじゃなくて、べつのこと言いたかったの、おれ話下手なんだよねな、ねね、今の話、カナにしてもらってよ、カナはそういうのうまいんだわ、これ、おれが話すとへーえって感じだけど、もっといい話なんだよね」 そう言って空き缶を路地に向けて投げた。」
- 暮林さんは自分の家(「東京ゲスト・ハウス」)から逃げていく=旅に出る(「「逃げるのよ私。あの旅の王様がいやでしかたないから逃げるの」」
- マリコ(「「私の知らない場所の話なんか聞きたくない」「私が聞きたいのは、あんたが何を見たかってこと」「私のいない場所で、たった一人で、何を見て、どう思ったかってこと」)
- 『月蛙』
- ブローデル『歴史入門』
- アナール派、あの分厚い本群に立ち向かう前に、ちょっと入門
内田樹 『寝ながら学べる構造主義』
- はじめの方で、構造主義的言葉づかいはもう止めようかという風になってくるはずという話がある。それは「構造主義が支配的なイデオロギーだった時代」が終わる時、ということ。
- 構成は、「構造主義前史」としてマルクス、フロイト、ニーチェについて一つの章で語られた後に、構造主義の始祖としてのソシュールが紹介される。そのあと、バルト、フーコー、レヴィ・ストロース、ラカンの「四銃士」を一章ずつさいて紹介。
- 同じく新書で出ている構造主義入門書、橋爪大三郎の『はじめての構造主義』が、レヴィ・ストロースを中心的に取り上げていたから、内田さんが同じ対象についてどう書くか気になった。
- で、内田さんの本の該当章の最後の部分。レヴィ・ストロース(または構造主義)における脱人間主義は、「人間の尊厳や人間性の美しさを否定した思想ではない」という記述は、橋爪さんがあの本でもかなり強調していた考え方だったと思う。
- また、内田さんのレヴィ・ストロースが示した「時代と場所をとわず、あらゆる集団に妥当する」「人間が他者と共生してゆくため」の二つのルールという紹介のしかたは、サクッとザクッとした感じで気持ちいい。二つのルール:「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」「私たちが欲するもののは、まず他者に与えなければならない」。
- ラカンについての記述でも、サクッと、ザクッと次のように書いてはる。「他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の人間性の根本的条件です」。
『花田清輝評論集』(岩波文庫)
- 魅力的文章(文体?)。言葉の出し惜しみがなく、ぽんぽんぽんぽん話しが進んでいく。気持ちいい。
- 石川忠司のテキストを思い出したり。
- 花田清輝(1909-74)
- 「坂口安吾などは、保胤ほどではないにしても、うまれつき、やさしい性格の所有者だったにちがいない。かれは、保胤のように、可哀そうだというので、つぎからつぎに、牛を自宅にひっぱってくるようなことはなかったが、犬を飼っていた。そして、わたしにむかって、肉屋は、ぼくの生活を、ひどく贅沢だというが、主として肉を食べているのは、この犬ですといった。」、慶滋保胤(よししげのやすたね)についての記述、「重荷をひっぱって喘ぎ喘ぎあるいていく牛をみてはハラハラと涙をながし、落とし物をしたといっておろおろしているお手伝いさんをみてはハラハラと涙をながし、叱られたといってはハラハラ涙をながし、腹がたったといってはハラハラ涙をながす」。
franz kafka "変身"
阿部和重『ニッポニア・ニッポン』
坪内祐三「1979年のバニシング・ポイント」
橋本治『[増補] 浮上せよと活字は言う』
- この本についての山形さんの書評。本の内容については触れられていないが、(彼らの世代にとって?)橋本さんがどういう位置を占める作家なのかが伺える。
池内紀 『ちいさなカフカ』
- カフカにまつわるエッセイ集。散歩道、動物、少年。ヴィトゲンシュタイン、長谷川四郎。堀江さんの文章を思い出したり。なんか静かだ。静かだけど、たとえばヴィトゲンシュタインとカフカについてのエッセイは、二人のフレーズを交互に引用するリズムが気持ちいい。
大鋸一正の『ヒコ』
綿谷りさ『インストール』(01)、橋本治『桃尻娘』(77-78)
- 橋本は後書きで「高校生小説」と言っている、執筆時は29才。
中沢新一『カイエ・ソバー ジュ1:人類最古の哲学』
0821
- 仲俣さん『ポスト・ムラカミの日本文学』を何を参照しながら読もうかと思ったとき、すぐ頭に浮かんだのが大塚さんの「サブカルチャー文学論」と、石川さんの『文学再生計画』だった。仲俣さんがあの本でポスト・ムラカミの作家たちとして取り上げた作家と重なりつつ多くの作家を取り上げた本としては石川さんの本ぐらいしか思いつかなかった。でも、実はそんなに取り上げられている作家が重なっているわけではないのだ。保坂さん、赤坂さん、阿部さん、町田さんにあと新宿系の二人ぐらいか?
- 大塚さんの「サブカルチャー文学論」はおもしろく読むけど、彼はぼくの今好きな作家たちにつていは書けないのじゃないかと思っていたら、こないだ保坂さんのウェブに大塚さんとの対談が掲載されて驚いた。で、「サブカルチャー文学論」から「村上春樹の「月並みさ」」を読み返す。はじめの方の論の立て方、村上文学が外国では(本が日本的な意匠で装丁されていたりすることからみても)サブカルチャーとして受け入れられていないのではないか話は、あんまし入り込めなかったけれど、だんだんおもしろくなる。
- これを読んでいて、おもしろいのが、大塚さんがサブカルチャーに対する態度で、それは擁護でも批判でもなくて、彼はサブ・カルチャーに「批評的たりうることば」を探している。
0820 『<私>という演算』、『ポスト・ムラカミの日本文学』を読む。何回目かわからんかえど、やっとこの本について何かかく手がかりができたかなー。『プレーンソング』を二回続けて再読。今日は一日中雨という感じだったが、夕暮れ、急に空がちょっと赤っぽく明るくなった。すこし心細くなる感じに。いつもの風景が見たことない感じに。しかし、外と内(部屋の中)とはなんと違うことか。外には世界があるという感じ。今の自分の部屋には世界がない感じ。
- 仲俣暁生 ポスト・ムラカミの日本文学
- これを読んでから、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読むとおもろい。たとえば、J文学について触れた(「J文学」で書かれていることというより、それらを売り出したり、位置付けたりするために採られた方法について批判した)連載第八回の「移行対象文学論、あるいは山田詠美と銀の匙」。
- あとは、すがさんの連載。早稲田文学での。も読み合わせたい。
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