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仮ページ。








はてなブックマーク - bkmrks.srd / 石川忠司

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intersection/tadashi ishikawa

  • 石川忠司情報ページ=WhoTdsIshikawaのサブページのようなものを作ってみようかとこの場で設計中。
  • WhoTdsIshikawaの方は、客観的な情報収集&掲載(石川さんのお仕事情報のデータベース構築)を目的にするとして、こちらは・・・
  • こちらは、もうちょっとそのテキストの中身に入っていく感じか。また、他のモノへと接続していく? テキストの中身に入っていくのは、自分もやるとして、他の人によるもの、ウェブ上にある石川さんのテキストへのコメントとかも紹介する?

以下は、URLメモ。しかし・やはり、感想サイトを集めてもしようがないかもしれん。取り上げるにしても、「自分が」コレと思ったものに限るか。特に、WhoTdsIshikawa ではなくてこの場所の場合は。

  • 『現代小説のレッスン』について、amazonのカスタマーレビューでのデルスさんという方のレビュー。厳しいレビューだが、こういう風に具体的に書いてくれると学べるものがある(「日本語はペラい」という話の部分が取り上げられている)。一冊の本のレビューとしてどうなのかと思われる人もいる? でも、ちゃんと部分にツッコミができる人が読んでいるというのも、有り難いことではないか。「単なる思いつきをそのまま活字化したかのような論証の甘さはこの手の文芸批評にはつきもの」って指摘も〈ホンマかよ〉と簡単に流せるような話でもないだろう。それを前に黙り込むこともないし・黙らせるための言葉でないはず。ここでは「単なる思いつき」と切り捨てられても、石川さんが例えば中国文学に興味を持たれ言及されるのを読んで私は、他の文芸評論家・批評家なら興味も持たないだろう領域への踏み出しに感じさせられるものがあり(これまで石川さんのテキストから感じさせられてきたもの・魅力の再=体験があり)、そのような踏み出しは物書きとしては当然のことと思いたくなり「他の文芸評論家・批評家」との比較などという形ではなく、このことについて書くべきだと(自分に対して)思う。その踏み出しが「芸」のように(パフォームされ・受け取られるように)なってはしようがない? 「単なる思いつきをそのまま活字化したかのような論証の甘さはこの手の文芸批評にはつきもの」って話を受けてもう一つかぶせて書いてみれば、石川さんにはもっともっと「文芸批評」というような枠に囚われない文章を書いて欲しいと読者として思う(し、そういう道はなかったのだろうか、と時々想像する)。石川さん自身が文藝評論、というようなものに特別な思いがあるのかどうか、ということはある。仲俣暁生が「私は「文芸評論」などというものをやりたくて文章を書いているわけではない」と書いていて、仲俣さんの言葉に久しぶりに共感したのだが、石川さんはどうなのだろうか?(結構前に、文芸評論はもういい、歴史の方へ、というようなことを言ってはったような気もする) しかし先に書いた「そういう(また別の)道はなかったのだろうか、と時々想像する」時に思うのは、そういうことは自分(だけ)で決められることなのか? ということだった。
  • デルスさんのレビューに戻れば、この新書に関する「感想」のようなものをネットで読んでいると、なんか「有り難くない」なと思うことが多いのでなおさらに気になるのだ。しかし「有り難くない」とか言っている自分は何もんだという感じ?・・・新書で「文芸批評」の本を出し、あういう多少なりとも親しまれている作家たち(including 今となっては親しまれているらしい作家たち)を扱うとなると、私にはあまり親しみが感じられない「こーゆー読者たち」の反応があるのか、という話しがしたいのか。ちなみに、このデルスさんという方の書いたレビューは他のモノもお勧め(うん、こういう風に外部に繋いでいく方が、このページ=Intersectionぽいな)。