すが秀実/スガ秀実

はてなkwd:すが秀実

  • 『革命的な』を読んだ人は『JUNK』も併せて読むことを勧めてみる。繰り返し語られている部分から、著者の問題意識が分かる。

『革命的な、あまりに革命的な─「1968年の革命」史論』(2003)

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  • フォルマリスムってのがきちんと理解できないまま読み終わった。重要なんだけど。
  • 最後の最後で「かかる事情をラカン的に記述すれば、より普遍的な問題として提示しうると思われる」って話しが展開しだす。
  • あ、大学ってもんを問題にもしていた
  • ちなみに、音楽の話しはほとんどなかった
  • 稲葉さんのコメント(6/10の所)。「小熊『〈民主〉と〈愛国〉』の続きになるかと思って」読んだ。「インフォマティヴだか見通しが悪い。」とのこと。
  • 渡部直己『日本「六八年」小説論─かくも繊細なる横暴』でのコメント。これは、連載中のテキストに言及したものだろう。「スガ氏の「史論」は、ソ連におけるスターリン批判を受けて日本に誕生した「ニューレフト」運動の展開を(内外のさまざまな思想的知見とともに)幅広くたどりながら、そこに「疎外論」の有無による切断の意義(および意義の今日的な可能性)を摘出する点に一貫した主眼が置かれているが、「疎外論」が招来するディレンマとして、「故郷の喪失の状態がそれ自体として故郷であるような」事態──アドルノの等号を転用すれば、「本来性」の喪失そのものが本来的であるような磁場──に着目するスガ氏は、・・・」 以下、大江についての話しが展開。「革命的な」での大江を扱った章の(下で触れたはず)渡部による小説論的な展開(「大江健三郎の(無)頓着をよぐるもの」)。
  • 『情況』2003年7月号掲載の関連の鼎談を読む。少しは頭が整理されたか。68年が持ち出されているのは、歴史の一つの結節点として捉えよ、ということなのか。現在について考える時の参照点として、日本では45年という切断が強調されることが多い(例えば、「民主と愛国」が挙げられている、そこでは「六八年」がなかったことにされる)が、68年という切断(現代史における68年を起点とするパースペクティブ)はグローバル・スタンダードでもある(この言い方はまあ半分冗談なんだろう。)
  • あと、「戦争」(そして「勝利」)として捉えることか。
    • 「・・・全共闘の言う「戦後民主主義批判」がスターリン批判の一ヴァリエーションではなく、戦後民主主義それ自体が「戦時体制」を意味するものだという認識からの批判だったとすれば、ヴェトナム反戦闘争は単なる傍観者の良心の疚しさから発するものではありえない。それは兵站地域たる福祉主義国家の「豊かさ」が、それ自体として戦争状態そのものであるという認識からする運動であり、単なる反戦運動というよりは、後述するように「国家に対抗する」戦争という側面をはらまざるをえないものであった。」(p.228) ・・・これはぼくには判断が難しいなあ
  • 「革命的な」で問題にされているのは、何と言っても「保守的革命主義者」/「政治的ロマン主義者」と
  • 「富士日記」に読書メモがあった(29、31日のところ)
  • 第一三章 一九七〇・七・七という「開戦」 より。 「・・・第三世界論は先進国革命主義には還元されえない。さまざまな「矛盾」が存在することをつきつける端緒となった。そのことは、黙示録的革命主義の異化をも意味していただろう。フェミニズム、ゲイ、エコロジー、保安処分、障害者、学校、病院、部落、アイヌ、人種、外国人、サブカルチャー等のさまざまな「存在形態」=「小さな物語」が「大きな物語」を圧したのは、基本的には第三世界論の登場に依拠しているといってよい。その意味で、第三世界論は後進国革命の問題から先進国革命の文脈へと接合され、内在化されたのである。六八年とは、これら相互に差異をもったさまざまな形式が立ち騒ぎ始めた場でもあった。「大きな物語」が支配する時代にあっては、もろもろの存在形態の間の差異は、そのなかで隠蔽されていたのである。」
  • 同じく一三章より。「・・・六八年革命は、いまだに、ナショナリズムと他者性という「この問題に答えを出しているとは全く思えない」」(ナショナリズム=ナルシシズムという文脈で)/
    • 六八年革命の収束/「他者問題=マイノリティー問題を、報酬配分による国民的な同一化のレヴェルに回収する」
    • 「日本のニューレフトのナショナリズムへの批判」「六八年的な、「機動戦/正面攻撃」から「陣地戦」へのシフト」「マイノリティー(の報酬配分)運動へのシフト」「ニューレフトの小ブル急進主義的「享楽」への親和性」「ナショナリズム=フェティシズム」
  • 第?部の カウンターカルチャーと理論的実践 は、現代美術、現代詩、演劇、ドキュメンタリーを中心とした映画などに焦点をあてたもので、(第?部 ニューレフトの誕生 も文学の話しが割とあったりと)、比較的入り込みやすかったのだが、運動系のグループの名前が散りばめられ出すと、集中して読めなくなる。・・・
  • ちなみに、文学への言及は思ったより多くない。大江については一章(大江健三郎における保守的革命主義の帰趨)を割いて語られる。しかし、これはテキストに分け入って書かれるような文学論というよりは、大江の作品のどのような部分(性質)が、どのような当時の状況のもとで受け入れられたのか、というような話しとでも言うか。
  • あと、三島の扱いは特別であちこちで言及がある。といって、まとまった言及というより、「(反)革命的」的な達成(?)として一々参照されるという感じ。
  • 現代美術(特に赤瀬川原平)が思ったより多い。
  • 半分ぐらい読んでも、何が革命なんだがかわからないが、とりあえずメモしておく。「これまで繰り返し述べてきたように、六八年を思想的に見るならば、さまざまに対立・拮抗する諸理論・諸思想が、その核心を穿つことを目指しながらも重層的な「誤認」を重ねた果てに可能となった「革命」にほからないが、・・・」 「可能になった」までは確かに書いてあった気がするんだがなあ。まあ、自分でもきちんと議論に付いて行けていないという意識もあるし、最後まで付き合ってみるべ。
    • 関係ないような気がするが、メモ。「すでに繰り返し述べてきたように、六八年は、革マル派を除くニューレフト諸党派にとって、今ここに生起しつつある「革命」として把握された。しかもそれは、彼らの党が──レーニン的であろうとローザ的であろうと──預言者的=「聖職者的」知識人の組織とされたことにも規定されて、黙示録的世界の到来と誤認されることになった。」
  • 第?部 カウンターカルチャーと理論的実践 第七章 アンダーグラウンド演劇のアポリア より。演劇の近代における文学的・芸術的ジャンルとしての存在理由についての記述。「・・・小説がこうむらざるをえない俗語革命という形式上の規定は、同時に、小説の内容上の世俗化をも受け入れなければならない。そのことこそが、同じような個々人の今ここにおける現前という想像上の信憑を保証する。『浮雲』以来の小説は、基本的に、この内容上の世俗化をも受け入れるものであった。しかし、そのような内容上の世俗化は、つまりはありふれたものの現前にほかならず、もう一つの要求たる「現代性」という新しさの要請とは、しばしば背反せざるをえない。ここに、詩と演劇が小説を補完せざるをえない理由も存在する。詩と演劇は散文的世俗化からのがれうる「前」あるいは「超」近代的なジャンルだからであり、そこにおいて「現代性」を担いうるのである。」 ほんまかいな。これがスタンダードな議論なのかしら。一応、補足、「現前性」と「現代性」の部分。「「近代(モダン)」とは、現前性への志向であるが、同時に、それは「現代性(モダニティー)」によって保証されなけれならない」そうだ。「現前性」の要請というのは、アンダーソンを引いて説明されている(上記引用部で言うと、「個々人の今ここに~」の部分)。「現代性」(「新しさの要請」)の方は?
    • 第八章 小説から映画へのエコロジー的展開 より 「・・・「近代(モダン)」という時代は、「現前性」と同時に、不断に新しさの「現在性(モダニティー)」を要請することによって構成されてきた。「現在性」とは「現前性」という虚構のリアリティーにほかならない」
  • 第?部 ニューレフトの誕生 第三章 「実存的ロマンティシズム」とニューレフトの創生 より。「内容的にも文体的にも、正しく『われらの時代』の系譜にあたる『遅れてきた青年』(一九六二年)について、江藤は文芸時評で次のように批判した。「麻薬、男色、乱交、テレビ、政治の内幕、フォルクスワーゲンなどという現代的意匠ばかりが飛び出してくる悪夢のような世界」とは、「作者の妄想に映じた『現代』や『都会』のきれっぱし」に過ぎず、このような作品の主人公たる「都会に敗北し、自己喪失して行く固定観念に憑かれた田舎出の青年は、なげき節のうたい手になるより、喜劇の主人公になる方がふさわしい」、と。/いうまでもなく、この江藤の批判は大江のある種の弱点を射抜いている。にもかかわらず、大江の『われらの時代』以降の作品は、六〇年安保の、そして、六九年にいたるニューレフトの一面を正確に捉えていたのである。・・・」
  • スターリン批判によって登場したニューレフト
  • 黙示録的革命

『「帝国」の文学 ― 戦争と「大逆」の間』

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「本論の目論見は」「日本自然主義が国民国家の「怨敵となる」ための「未完のプロジェクト」を探るところにある」

  • 「フロイトに倣って言えば、フェティシズムが「もの」の背後の無―すなわち、男根(ファルス)の不在―の否認であるとすれば、「もの」の描写とはその否認の否認(否定ではない)にほかならない。男根(ファルス)的父権の不在を否認し、そこにあたかも実体的に父が存在するかのごとくみなすのではなく、死せる無として父を顕在化させつつ散逸させ偏在させること。それが否認の否認としての描写であり、もしかしたら、「大逆」事件に直面した「時代閉塞の現状」の石川啄木が「強権」への批判として自然主義文学に見出そうとし、見出せなかった可能性であるかもしれない。」(p.212)
  • 「「蒲団」から『生』への軌跡を追ってきて知られるのは、「自然」主義とは「非-真理」の排除・隠蔽にほかならないということであった。」
    • 「これとは逆に、今日の諸研究は作品こそ悪しき「非-真理」であり、それによって抑圧・隠蔽された「真理」を回復すべきだという立場を取っているということになる。彼らが作品を「非-真理」として措定するのは、それが十全な「真理」として再建されるべきだからである。だが、それは実は、田山花袋的「自然」イデオロギーと相似的な倒錯にほかならない。作品の外に「真理」を設定するとは、小説という「非-真理」のジャンルへの思考を回避することに帰結するからである。それと同時に、それはありうべき「真理」としての小説を夢想しているわけだから、「存在しない」ものに憑かれているという意味で、小説に対するフェティシズム的倒錯を内包している。」

「日露戦争後の「帝国」の時代」(p.269)

「「父殺し」に憑かれた日露戦後の文学」

「国民的同一性のなかに走った「分裂」」

  • 「「国民」における「市民」と「民族」の矛盾」
    • 「日露戦争後の帝国主義時代にあって生じた国民的「主体」の分裂という事態」(→「日露戦争後文学の描写問題」)
  • 「近代資本制において、芸術作品は社会的諸関係から相対的に自立した、宗教の代補としてあらわれる。その自立性がまず美と呼ばれ、価値づけられる。だから、美とは何よりも、近代以前の社会的・歴史的諸関係から切り離されて自立的な存在と自らみなす「市民」にとっての宗教的価値にほかならない。美とは、近代資本制における「市民」の、「生命」エネルギーを表象するイデオロギーと言えるだろう。しかし、「市民」が「市民」としてのみでは存在しえず、「国民」といった形態において存在しうるのも、これまた自明である。市民社会は、それ自体としては、「万人の万人に対する戦い」(ホッブズ)を潜勢させた「欲望の体系」(ヘーゲル)でしかない。「国家」(そして「家族」)を媒介せぬ市民社会は、不断に「現実界」(ラカン)の侵入の危機にさらされている、危うい存在なのだ。その時、「市民」は近代以前の文物を―たとえば、博物館とか図書館といった形のなかに―従来の歴史的諸関係から切り離して、自立化させようとするだろう。それは、旧来の文物の「市民」化であり美学化である。その美学化された対象に、「市民」は自らの「生命」を投影する。そのことによって、「民族」的な「伝統」が発見=捏造され、「市民」は同時に「民族」となる。「民族」もまた「生命」主義に包摂されるのである。近代以前の歴史からの切断によって規定される自由な「市民」が、歴史と伝統によって規定される不自由な「民族」と相容れないことは論理的には自明だが、そこで「生命」は「市民」と「民族」の矛盾を隠蔽するイデオロギーとなるのだ。」

「「大逆」が近代日本の「国民」概念のリミットをなしている」(p.283)

「かかる白樺派的=「大正的」思考が本書において論じるにあたいしないことはいうまでもない」(p.325)

  • 「大正期の前衛芸術運動と呼ばれるもの」も。西村伊作の文化学院、佐藤春夫「美しい町」、武者小路実篤の「新しき村」も。「「大正的」なるもの」
  • 栗原幸夫さんによる書評

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