北田暁大『広告の誕生』 (amazon)

  • 雑誌の誌面空間

「もしベンヤミンのいうように、近代における「批評」的言説の目論見が、対象とのあいだに「正しく距離を取ること」であり、「遠近法的眺望(パースペクティブ)と全体眺望(プロスペクト)が大事である世界」(『ベンヤミン・コレクション』3巻108頁)に場を占めることによって対象=テクストの《意味》を担保することであったとするならば、間違いなく広告は「批評」とはもっとも遠いところに位置するものということができる。」(p.188-9)


議論の照準は次のようなもの

  • 「システム=総体としてはスペクタクルを構成する装置として機能しながらも、個別的な表象としてははなはだ弛緩した受容の構造しかもたない広告の両義的なあり方」、そこから読み取れる近代という出来事の徴候
  • 「歴史的な文化現象として広告を語る消費社会論の視点においても、また意味生産(交換)の磁場として広告を捉える理論機制(批判学派)の視点においても、われわれはそこに「意味の媒体」として広告を捉えようとする共通した意志を読み取ることができる。」(p.7)
  • 「こうした」「広告をめぐるメタ言説はなるほど広告に対するわれわれのある種の直感を的確に言い当てているように思われる」「しかし」「日常的な風景のなかに立ち戻ってみたとき、奇妙なまでに大袈裟なものに映りはしないだろうか」「その大袈裟ぶりがかえって広告の《本質》、つまり広告の社会的なあり方を考えていくうえでとり逃しては鳴らない問題の「核」を見えにくくしてしまっているのではなかろうか」
  • 「広告の社会性」に照準する場合、「広告受容の現場で起こっている<散漫に見る>という事態は」無視できない。
  • 「システム=総体としてはスペクタクルを構成する装置として機能しながらも、個別的な表象としてははなはだ弛緩した受容の構造しかもたない広告の両義的なあり方」、そこから読み取れる近代という出来事の徴候
  • 「街路をぶらつく遊歩者の微妙な経験」に見出される「総体=システムとしての広告から溢れだす過剰」
  • 「広告こそが、「集団」から「個人」へ、そして「意味」から「事物」へのアスペクト転換を特異な形で成し遂げると見込まれている」(p.14)
  • 「システム=総体として匿名的な「集団」の前に」広告が現れるとき、それは「人間の主観・意識・志向性が構築する「有意味」ねイメージの構成素」「人間的なあまりに人間的な装置でしかありえない」、「そこでは《広告である/ない》という境界性はまさしくまどろみのなかにあ」る。
  • 「都市空間を闊歩する遊歩者の視線にしてみれば、広告はいささか無遠慮にも剥き出しの「事物の世界」―たんなる資本の詭計には回収されない、剥き出しのモノの世界―を投げつけ、自らが《広告である》ことを恥ずかしげもなく顕示してくる存在である」、「気散じの受容空間において、われわれは歩みを一時中断し、じかにモノの世界に晒されてしまう」
  • 広告が判じ絵のように滑り込む、まどろみ、
  • 気散じ
  • 香具師的なるもの
  • 舞台
  • 新聞
  • ポスター
  • 駅の空間

1920年代後半から30年代にかけての婦人雑誌(『主婦之友』に代表される)、その情報様式について

  • 私的な遊動的を引き起こす誌面空間
  • 広告/記事の意味論的・物理的な境界設定の融解
    • 「商用情報が読書という出来事の地平(地)そのものとなりつつあった」
    • それは広告が自律性を失うということでもある

なぜ、このようなことが女性を対象にする雑誌でおこったのか -> 近代において女性性がどう構築されたか

  • 散逸する広告
  • 融解する広告