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石川忠司トーク@中央大学

  • 以下は、02年11月4日に中央大学で行われた中央大学学術連盟文学会主催の石川さんの講演会のレポートです。お題は「村岡素一郎『史疑―徳川家康事蹟』をめぐって」でした。
  • かなり時間がたってしまってから、自分の汚いノートを見ながら思い出しつつ書いたので石川さんのトークの実際と食い違うとろこがあると思います。ので、扱われた話の参考程度にして頂ければと思います。そして、楽しみにこのモチーフがいつか活字になるのを待ちましょう。

  • 単独での講演は初めてだったようで、だからなのか予め用意された原稿を読むスタイルで行われた講演はライブ感はあまりなかったけどやっぱ生はいいし、あと内容がまだ活字になっていない構想中のもので、テキストが構成されていくプロセスを垣間見られる機会となった(完成したテキストとしての発表が待ち遠しい)。仕事のフィールドを文学から歴史へとシフトされていっているさなかだという話があった。もともと文学より歴史への興味があったという。だが歴史にアプローチする方法論がわからず、手を出しやすそうに思えた文学から仕事をはじめたということらしい。それがこの頃歴史に手を出し始めた理由としては、小説を読んでテキストを書くことも、歴史的資料を読んでテキストを書くことも、どちらもテキストを読んでテキストを書く行為(テキスト・クリティーク)であると気づいたこと、歴史について書いている人たちも何か確固とした方法論を持って仕事をやっているわけではないと知ったことが挙げられていた。

  • 取り上げられた村岡素一郎の『史偽―徳川家康事蹟』(刊行:1902年)は、当日配布された資料によると「後の世に知られる家康は、ホンモノの死に乗じて入れ替わったニセモノであり、そのニセモノは賤民の出身であった」という家康論だという。石川さんにとってこの本は「ガツンとくる」ものだった。それではどのようにそれは「ガツンときた」のか? 出自なんてものが捏造可能な怪しいものであることなど今となっては当たりまえのことで、その暴露にはスキャンダリズムはない。石川さんが注目するのは村岡の叙述形式だ。村岡は様々な資料を読み込んで自説を展開していくのだが、その過程で物語化の手法をとっていない。調査の成果をリニアな時間軸に並べる直すことをしていない(もしこの内容をリニアに並べ替え物語化して提示すれば、それはただの立身出世談のようになってしまうだろう)。
  • 村岡は、ある資料に記された家康がふと漏らした言葉から、家康の出自について疑いだし調査を始めたという。(以下、石川さん自身の言葉ではないが)「家康が家康でなかったかもしれない」ということ、そんなことをぽろっともらした(一人の人間としての)家康、について知るときに感じる「はかなさ」。
  • それは「歴史のトラウマ」に接した瞬間に受ける感覚とも言える。人間の絶対的な生のはかなさ=有限性があらわになる瞬間。人間的な意味の付与がされた/観念化された/物語化された歴史の中には見出せないもの。
  • また、家康の出自がささら者(賤民、被差別部落民)であったというこの説から、ささら者の生ということ(また、ささら者の生を描くこと)について考えてみれば、またそこにはかなさにつながる何かがありはしないか?

  • この後、スガ秀実(『「帝国」の文学』)や渡部直己(『日本近代文学と〈差別〉』)を参照にしながら、国民概念の創出と被差別部落民の表象の関係についての議論。
  • 具体的な場所時間に生まれ、それぞれ特徴を持っているにもかかわらず、それらを捨象して、均質な国民に「なる」。
  • 国民は均質性を持つ市民であり同時に時間的な連続性を持つ民族でもある(スガの議論を参照)。
  • アンダーソン(『想像の共同体』)のナショナリズムの文化的根源についての議論。ナショナリズムがそれまで宗教が果たしていた役割(人間の生における「運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換する」つまり「偶然を宿命に転じる」役割)を果たす。ー>時間的な連続性を持つ民族という概念
  • 渡部による、明治期の文学で描かれた被差別部落民の分析。彼らは「しるし」を持ったものとして描かれる。そのことによって、それ以外の人々の(「しるし」を持たない者としての)均質性が保障される(つまり、小説的感性が差別を生ずる、とも言える)。ー>このように、市民への再編にあたって被差別部落民が利用されたが、民族への再編の場合にも同様なことが言える(スガさんの議論?)

  • 以上のように構成された「国民」ははかなくは死ぬことはない者としてある。それに対して、被差別部落民だけがはかなく死ぬ、と言える。
  • 村岡の『史偽』は独特な国民国家批判として読めはしないか? 純粋に死すべき(死んでいく)もののはかなさ、民族概念に隠されるはかなさを暴こうとした?(前述の『史偽』の中に表現された「はかなさ」を参照) (また少し話しがずれるが、この本が出版された頃の時局との関連も。明治政府の要人達の出自について)
  • 現在の国民国家批判論の傾向は、マイノリティ概念を使って、国民の市民としての均質性を撃とうとするものが多く、一方の民族性批判は手薄になっている?
  • 均質性は本当にわるいのだろうか? 違うタイプの同一性、差異性と対にならない同一性の概念について考えることはできないか?
  • ここで、ジジェク、ヘーゲルの言う同一性への参照。具体的な特性で定められる同一性ではなく、無としての同一性、非同一性としての同一性、「なにものでもないもの」としてのの同一性、ありふれたものとしての同一性というもの。
  • 「なにものでもないもの」としての同一性(ある種の均質性)の概念の創出による、「なにものかであろうとする」ところの民族概念の批判。

  • 生き物の同一性について。彼らはただ生きただ死ぬ。なにものでもなく生き死ぬ。そこでは、人間によって与えられた「何々類何々目」というような分類=「同一性」と無縁の生と死がある。その世界はある意味楽園状態にあると言えるだろう。
  • しかし「生き物」はある根源的な深いメランコリーを抱いている(ジジェクのシェリング論を参照)。彼らに欠けているもの、その不在が彼らをメランコリーに陥らせるもの、それは「なにものでもなく生き、なにものでもなく死んでいく」ことを表現するための言語である。
  • その言語を持った「新しいもの」としての人間。人間の言語は「なにものでもなく生き、なにものでもなく死ぬ」ことを表現する方向へと向かうべきなのではないか?(その時「古いもの」としての「生き物」たちも報われるだろう)。
  • この話は、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』での議論へと接続するのではないか?